今朝のデボーションはルカ7章40節〜50節です。
売春婦がキリストの足元で謙り、キリストの足に口付けをし続け、高価な香水をも、キリストの足に注ぎました。キリストの御前で謙り、信じ、多くの罪が赦され、大胆にキリストと関係を持ち、礼拝し、捧げたのです。
私たちがキリストの御前で謙ることを妨げるものは何でしょうか。キリストの御前で謙り、受け入れる者たちは御恵みを受け取ることができます。(参照 ヤコブ4章6節)この売春婦は周囲の人目を気にせずに、キリストと関係を持ち続けました。自力で何とかなるという高慢な態度は御恵みが私たちに注がれるのを妨げます。最も危険なのは、無意識の内に大丈夫であると高を括ることです。私たちはキリスト無くして何もできないのです。(参照 ヨハネ15章5節)私たちが謙るとき、神様は私たちを通して、素晴らしいことを成し遂げられるのです。この売春婦のように、大胆に礼拝する者として用いられるのです。
私たちが前進し続けるのを妨げているものは何でしょうか。過去の人間関係から受けた傷で人々を信じられなくなっている事でしょうか。その酷い事をされた人の名前を聞いただけでも、嫌な感情を持つでしょうか。英語の聖書だけでも、この「信じる」という箇所に関して、様々な訳があります。信じるに加えて、信頼する、信頼に溢れる、忠誠心を持つ、最善を信じるなどがあります。これは人々を信じることが愛であるという意味です。(参照 第一コリント13章7節)
疑いの感情がわき上がっても、信じる選択をすることは簡単な事ではないかもしれませんが、人々を信頼し、その人々に忠誠心をもって接し、いかなる疑いの気持ちがあっても、良い仕事をすることを信じて、任せるのです。過去の疑い深い言動が見えても、その人々が良い動機で物事に取り組んだことを信じることも大切です。人々に対してもつあらゆる懐疑的な考えに対して、信頼に溢れる選択をするのです。嫌な体験をした人間関係であればあるほど難しくなるかもしれませんが、真実の愛は、愛することが難しい人々を愛するときにあらわされるのです。(参照 ルカ6章32節)何よりも大切であるのは、これらの戦いは人々とではなく、悪魔とであることをおぼえることも大切です。(参照 エペソ6章12節)
同時に、私たち自身を信じることに関してはどうでしょうか。私たち自身の様々な選択に関しても、信じることができているでしょうか。自分に対する懐疑的な考えや姿勢は、自分自身を必要以上に追い込み、不安へと導き、強いては、普段の生活にも影響を与えるようになります。自分自身を愛するように、隣人を愛するように聖書では教えています。(参照 マタイ22章39節)
今日も人々を信頼することを選択し続けましょう。この非常識である御言葉を謙り、信じ、受け入れ、行動に移すことにより、神様は私たちを通して、素晴らしいことを成し遂げられるのです。私たちが願う成長はキリストが御戻りになられるまで続きますが、忍耐して、小さな成長を喜び、自らを励まし、取り組み続けましょう。(参照 ピリピ1章6節、創世記1章31節)
神様の豊かな祝福がありますように!
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