今朝のデボーションはルカ22章66節〜70節です。
キリストが伝えても信じられず、質問をしても答えられないことを御存知でしたが、それでもキリストが神の御子であることを伝えました。これはキリストの憐れみでした。
私たちは神様の憐れみの中で歩みながらも、憐れみをもって人々に接することができないのは何故でしょうか。赦しの中で歩みながらも、人々を赦せず、非難の無い中でも、人々に過剰に厳しく接し、非難する原因は何でしょうか。私たち自身が神様の憐れみ、赦しを体験する選択をしていないからです。少しを赦された者たちは少し愛し、多くを赦された者たちは多く愛するのです。(参照 ルカ7章47節)
私たちの過去の人間関係で、過剰に厳しく扱われた場合は、自分自身をも過剰に厳しく接し、周囲の人々へも同じように過剰に厳しく接することでしょう。しかし、私たちはこの悪のサイクルを止めることができます。
聖書が教える赦しの一つであるギリシャ語のaphiémiは、許可する、苦しむなどの意味が含まれます。つまり、酷い事をされても、それに否定的に反応しないということです。酷い事が無かったかのように愛し続けるのです。キリストが十字架に架けられたときに、天の御父様に赦すように祈られましたが、この箇所の赦しもaphiémiが用いられています。(参照 ルカ23章34節)何よりも、私たちが日常的に、キリストにも赦されていることを知り、体験することが大切です。(参照 第一ヨハネ4章19節)キリストは私たちの日々の神様が喜ばれない言動を許し、苦しまれているのです。キリストが一度だけ十字架上で人類の罪のために死なれましたが、これは全ての罪に対してでした。つまり、私たちは今でもキリストの罪の赦しが必要であるのです。(参照 ローマ6章10節)
言い換えれば、私たちは自分を非難する必要も無いのです。(参照 ローマ8章1節)しかし、私たちは必要以上に自分自身を追い込んでいることはないでしょうか。赦されている自分自身を、追い詰めるのは愚かな選択です。自分自身を非難することを止めれば、私たちは周囲の人々にも同じように接することができるのです。
今日もキリストが私たちに示されている憐れみを、赦しを体験する選択をし続けましょう。私たちの周囲の人々との人間関係が改善される御恵みも体験しましょう。
神様の豊かな祝福がありますように!
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